映画は編集のかたまり
■今日は、小説の「表現範囲」を考えるまえに、その用意として、
映画についてまとめてみます。
昔は映画が盛んでしたよね。
今では想像できないかもしれませんが……。
おそらく「娯楽=映画」という公式が成り立っていたのでしょう。
でも、よく文学や芸術に詳しい人が「若い頃にはたくさん映画を見た。でも、 いまは見るべき映画がなくなってしまった」というとき、それはただの娯楽、 ヒマつぶし以上のものを指しています。
いったい、何を指しているのでしょうか?
映画の内容?
ストーリー?
もちろん、それもあるでしょうが、多くの人がかつての映画に 言及するとき、「カットが……」「アングルが……」ということに こだわっていました。 カットに注目すれば、どの監督の作品かわかるようですね。 つまり、映画は「編集」が重要、もっといえば「編集のかたまり」 だったわけです。
これはかなり重要な点だと思いませんか?
いまの映画が凋落したのは、他にもたくさん娯楽ができたこともありますが 「編集へのこだわり」が低下したことが大きいのではないでしょうか? かつての映画はフィルムを切り貼りしてつなげた「手作り感」が 伝わってきました。 いまの映画はコンピュータ上でCG処理されることが多くなっています。
「編集へのこだわり」を伝えていた要素の1つである「手作り感」は消え、 代わりにデジタル性が前面に出ることになったわけです。 でも、「手作り感」を取り戻そうといいたいのではありません。 むしろ、現代で「編集へのこだわり」を出すには、デジタル性を 追求していく必要があるでしょう。
映画は、社会状況とテクノロジーを背景にして作られます。 現代ではデジタル技術でできる表現範囲が、映画の表現領域になります。 かつて、カメラでおさめていた表現領域とは、比較にならないくらい広く なっています。
おそらく、このことを考慮しないで
・技術は先端のCG
・表現範囲は日常的リアリズム
という組合せをしてしまうと、確実に見劣りするでしょう。
CGの表現領域を十分に使い切るには、日常的リアリズムを描くだけでは 足りません。 かつての映画が手を出せなかった領域を取り込み、さらに観客も その「編集」に加わる必要があります。 実は、黙って見ているよりも、「編集」に加わった方が、認識・理解が 深まるのです。
もはや、できあがった作品をそのまま見て受け入れるというスタイルは、 時代に合わなくなっています。 おそらく、ストーリー展開の決定権を観客に与えた方が、さまざまな面で 充実度が増すでしょう。 かつての映画がもっていた「編集へのこだわり」は、このレベルにきたとき 復活すると思います。
そして、「映像の操作」が前面に出てきたとき、映画とゲームは限りなく 近接します。 映画の本質が「編集のかたまり」であれば、この流れは必然的なものでしょう。 このとき、観客はどんなメリットを受けるでしょうか?
それはストーリーの多重性を味わえることです。 かつては直線の上を走っていくストーリーを追いかけていただけでしたが、 この方法が実現すれば、ストーリー空間の中に浸ることができます。 ストーリー展開は、観客の性質や好みによって、それぞれ異なり、 各自が形成したストーリー空間の中で非日常の感触を味わえるわけです。
もちろん、そのようにして観客が作り上げたストーリー空間をパッケージ化 すれば、それをDVDに焼いて売ることもできます。 この水準までくれば、映画が完全復活し、Macintoshもメジャーな編集マシン として、再び家庭に行き渡るでしょう。
さて、小説は、このときどうすればいいのでしょうか?