文体の軽さと身体性
■小説を書く立場からみると、文体はいろいろな要素を含んで いるので、けっこう難しそうに見えます。 とくに、こういうふうに説明調でやっていると、その印象に拍車を かけてしまうかもしれません。
でも、文体というのは、そういうものではないんです。
メルマガの文章も、1つの文体をもっています。
はたして、メールマガジンが普及する以前に、こんなに行をあけた 文章が存在したでしょうか?
原稿用紙でこういうふうに書いたら、編集者が原稿指定のときに
「詰める記号」を入れてしまうでしょうね。
でも、メルマガで、びっしりと文字を詰めたら、読みにくくなって しまいます。
それに、もう1つ。 「存在したでしょうか?」と問いかけたあと、たくさん行をあけると、 読者は「そうかなあ……?」と考えはじめるのではないでしょうか。
「読みやすくする」+「思考を促す」
メルマガの行の大きなあき方には、この2つの意味が生じています。
そして、これはビジネス系メルマガでも、よく言われていること ですが、「話しかけるように」書く。
いつのまにか「である」調に触れる機会が、どんどん減っている ような気がします。 でも、昔に比べて情報の質が下がったかというと、そんなことは ありません。 かえって、ネットワーク化されて、新しいものを生み出す力の源泉 になっています。
質が上がった、下がったというより、「活性化」されたのではない でしょうか。
岩波文庫が書店に並んでいるのがあたりまえだった頃、 「である」調は最盛期でした。 いま思うと、この「である」調は、情報を標本のようにきっちりと 留める機能があったようです。
学者が研究した成果を「である」調で書くと、まるで、標本箱に 留められた蝶のように、知識が固定されてしまいます。 この知識を読んだ人間は、それを頭に入れますが、その知識によって 行動を促進されるということはありません。
岩波文庫が書店の棚から消えたのは、知識を固定する意味が失われた ときだったのではないでしょうか。
現在、知識は流動化して、読者を行動に駆り立てるようになっています。
「知識をもっているだけではダメ」
「実際に行動しないと意味がない」
というフレーズが、よく使われます。
この時代に、「である」調は重すぎるのかもしれません。
かつて、他者を批評する能力があることは「頭がいい」と言われて
いました。
現在では、
「批評なんか口先だけだ。自分が何ができるかが重要だ」
「批評しているヒマがあるなら、自分が変われ」
という具合に変化しています。
ここまで、なぜビジネス系の話をしてきたかというと、この分野は メディアの変化に敏感だからです。
一方、小説のほうは、メディアの変化ということにあまり関心をもって いないようです。 むしろ、紙媒体の本がいつなくなるか、不安なのかもしれません。
おそらく、メディアの変化はこれからが本番です。 現在は、ようやくハードウェアが行き渡り、インフラが整った状況 です。
ちなみに、紙媒体は絶対に残ると思います。 もし紙をなくせば、人間の認知機能の限界性の問題が出てくる でしょう。
これまで、ずっと知識を紙に印刷して保存し、それを何度も読み ながら伝達と再生産をしてきたので、その部分をデジタル化する と、想像もできないようなストレスがかかってきます。
いまでも、大量の文書を読むときはプリントアウトしています。 メルマガ程度の文章でも、行をたくさんあけていますから、 やはり、身体性の部分で、相容れない箇所が必ず出てくるのは 確実です。眼球の問題もあります。 高輝度のディスプレイでは、短時間しか見ていられないでしょう。 無理をして見ていると、そのぶんストレスがたまります。
身体性の観点からみた場合、紙媒体がなくなることを心配するのは、 ポイントがずれています。
それよりも、本質的な問題は、紙の上に記述する文体です。 これは確実に変化します。
身体性、身体のリズム、身体的な心地よさ…… 新しいメディアの上に生活していれば、当然、身体的な要素は変化 します。 文体は、この身体性の上に成立しますから、おそらく今よりも 意味伝達が速く、記述スピードの速い文体が現れると思います。 かんたんにいえば、フットワークの軽い文体です。
この身体性を無視した文体で書いたら、読者が受け入れない でしょう。 これまで、一般の読者が受け入れないものは「高級だから」 「深遠だから」といわれてきましたが、さすがにもうそれは 通用しないと思います。
いまの小説が使っている言葉のうち、この状況に適応できるものが どのくらいあるのでしょうか?
ほとんどないかもしれません。 軽い文体を使って、きちんと内容のあることを表現する。 これまでの日本の知識人層にとって、もっとも苦手な領域です。
ところが、小説家はこの課題をきちんと受け止めないと、まったく 活動ができなくなります。 新しいメディアの上で生きる人間を書くというのは、これまでSFが 扱ってきましたが、これからはふつうの文学になります。 メディアと人間はすでにそろっていますが、文体が発見されていません。
果たして、小説を書いている人たちは、この文体を見つけることが できるでしょうか?
いまの段階で、この文体のもっとも近くにいるのは、ネット上で 日記やエッセイを書き散らしている人たちです。 「身体性から出てくる文体」という意味で。
でも、残念ですが、ストーリー構築の観点が欠けているんですね。